まあ、別にいいけど。

出勤しながら悶々と考えている、くだらない話。

新生活に思うこと。

f:id:fukayan0628:20180414214827j:plain

春分の日、引っ越しをした。

 

26年間住んだ実家を出て、新生活を始めた。

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214843j:plain

これからは二人暮らしである。

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214853j:plain

今まではなんでも世話してくれる実家であぐらをかいていた。

掃除洗濯炊事、暮らしに必要不可欠なことは全て親に任せっきりだった(唯一料理だけ趣味程度にやるぐらい)

 

そんなわけだから、自立して自分たちだけで暮らしていくとなると、日々家事労働に追われ、てんてこ舞いになるだろうと思った。

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214905j:plain

 

いざ2人で暮らし始めると、特に家事の当番を決めることはなかった。

自然と分担して、お互い手分けして家事をする事となった。

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214916j:plain

 

ある日私が夕飯の支度をしている最中に、彼が自ずと干してあった洗濯物を取り込んでたたんでくれた。

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214927j:plain

「そうやって積極的に動いてくれるから助かるよ」

 

 

 

私がそう言うと、彼は当然のことのようにこう言った。

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214938j:plain

「どっちかがやるしかないんやし、手の空いてた自分がやっただけや」

 

まるで神のような一言だった。

 

 

どちらかがやるしかない。

 

 

そうだ。

 

 

f:id:fukayan0628:20180414214952j:plain

ふたりで暮らしていて、家事労働はお互いに、同じくらいの比重で義務付けられている。

それを、誰がいつやるか。

 

それはその時々の状況によって、動ける方が動くしかない。

 

f:id:fukayan0628:20180414215004g:plain

日常に散りばめられたタスクの中に、手の空いているほうが飛び込んでいくしかないのだ。

自分の持ち場が終わったから、あとのことは関係ない、ではない。

 

 

お互いが家事に対する参加意識を持って、2人で協力し合って暮らしていくしかないのだ。

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215021j:plain

そんな概念を彼が持っていることに感銘を受けたし、肝に免じて私も見習おうと思った。

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215033j:plain

そんなわけで日々の家事労働を2人で協力してこなしていくと、思いの外負担にはならなかった。

実家に居た時と同じく夜の10時半に就寝することなど、たやすいことだった。

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215049j:plain

もちろん実家に居た頃と違って、毎日生活する上でやらなくてはいけないタスクだらけではある。

ご飯は定期的に炊かないといけないし、ゴミ出しも忘れてはならない。

 

しかし、それが精神的なストレスにはならなかった。

 

f:id:fukayan0628:20180414215104j:plain

むしろ毎日のように散りばめられたタスクを把握し、こなしていくことで生活に張り合いが出た。

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215118j:plain

2人とも歩みを止めたら暮らしが破綻してしまうという環境は、程よい緊張感があって楽しい。

自分たちの足で立って生きている心地がする。

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215130j:plain

2人とも立ち止まって一緒に休める時もあるけれど、それは普段からやるべきタスクをこなしているから生まれた余裕なのである。

 

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215143j:plain

しかしながら、実際絵を描くなどの図画工作の趣味を楽しむ時間は減っている。

 

やろうと思えばできるが、つい台所に立ってしまったり、掃除したりしてしまう。

 

f:id:fukayan0628:20180414215158j:plain

急いてはいないのに、お弁当のおかずのストックを作ったり、ちょっと目についた汚れを磨いてみたり。

 

そうやって自分の時間が削られているにもかかわらず、家事をやらされてる感じはしない。

 

f:id:fukayan0628:20180414215210j:plain

むしろ楽しくて、心が充実している。

もはや家事が趣味のひとつになっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215226j:plain

ある日突然、炊飯器が壊れてしまった。

しかたなく人生で初めて鍋でご飯を炊くことになった。

f:id:fukayan0628:20180414215248j:plain

ネットで調べながら、火加減を調節しつつ見様見真似でやってみたのだが、

ご飯が湯気を上げふっくらと炊き上がった瞬間の喜びは、スイッチ一つで炊けてしまう炊飯器では味わえないものだった。

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215308j:plain

お弁当に入れて食べた時の「わしが育てたメシ」を食べている満足感は半端なかった。

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215332j:plain

今まではカゴに入れるだけで自動的にタンスに畳まれて入っていた服も、

自分たちで手分けして洗濯して干してたたむから、全てのサイクルに携わっている当事者意識が芽生える。

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215347j:plain

タオルを使う前、服を着る前に思わず顔をあてて匂いを嗅いでしまうし、太陽光の香りがすると嬉しい。

これらはすべて、実家にいた頃には味わうことのなかった喜びだった。

 

 

 

こうした暮らしのサイクルを回すというのは、言わば暮らしを「つくって」いることになると思う。

創作活動のひとつなのだ。

f:id:fukayan0628:20180414215402j:plain

全ての家庭において「暮らし」は日々回っており、その結果家ごとの「習慣」や「文化」が生まれている。

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215415j:plain

よくある、「昔から我が家で日曜のお昼と言えば永谷園の焼飯」「お茶は年中ウーロン茶」と言った"我が家の定番"が最もたる例である。

 

それらの文化は、家事労働を担う主婦()による創作活動の結果とも言える。

f:id:fukayan0628:20180414215428j:plain

世の専業主婦の方たちは、世間一般では無職と呼ばれることが多々あるが、私からすれば立派なクリエイターである。

 

 

 

 

 

f:id:fukayan0628:20180414215440j:plain

日々の暮らしそのものが、ものづくりの一環であることへの気づき。

そして、私もこれから自分たちの手で、新しい「我が家」の文化をつくりだしていきたいという思い。

 

その二点を、暮らし自体は無形文化財である以上、何かの形で書き残しておきたい。 

そう思ってブログに認めた次第です。

最後まで読んでくれてありがとう。

お粗末さまでした。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

追記

 

f:id:fukayan0628:20180414215500j:plain

お鍋でご飯を炊くのにハマったので、思い切ってリンナイ5合炊きのご飯鍋を買うか検討中。

もはや趣味の範疇になってきたので炊飯器の便利さやコスパとかどうでもよくなってきた。

趣味の威力すごい。